泥炭で農業をするということ
(以下の内容は、私が2時間話した内容をAIで要約したものです)
― 変化する気候の中で土と向き合う意義 ―
泥炭土壌は、一般的な鉱質土壌とは本質的に異なる。
それは、長い年月をかけて湿地に植物残渣が堆積し、未分解のまま蓄積された有機質の層である。北海道の泥炭地はおよそ数千年をかけて形成され、場所によっては数メートルの厚さを持つ。そこには、かつての植生の歴史が閉じ込められている。
しかし「泥炭」と一括りにすることはできない。
堆積した植物がミズゴケ主体なのか、スゲ・ヨシなのか、木質残渣なのかによって、養分量も分解速度も保水性もまったく異なる。1キロ離れただけで作物に適さない泥炭も存在する。泥炭で農業を行うということは、まずこの個体差を受け入れることから始まる。
泥炭は養分を多く含む。特に腐植由来の有機酸は、養分の急激な吸収を緩やかにする緩衝作用を持つ。この特性は、冷涼だった過去の北海道では大きな利点だった。夏が短く気温も低かった時代、泥炭の養分供給力は作物の生育を支え、翌年への蓄積を可能にした。アスパラガスのような多年生作物にとって、泥炭は「力のある土」だったのである。
しかし現在、気候は変わった。
夏は高温化し、分解は加速し、作物は与えた養分を過剰に吸収する。かつては利点だった養分供給力が、今は過繁茂や翌年の芽数減少につながる要因にもなり得る。土壌の本質は変わっていない。変わったのは環境である。
ここに、泥炭農業の本質的な意義がある。
泥炭は「向いている」「向いていない」という単純な評価では語れない。
どう使うか、どう制御するかによって価値が変わる土壌である。養分を吸わせる技術よりも、「吸わせすぎない技術」が求められる。施肥設計は固定的ではなく、気温・降雨・分解速度を前提に再設計されなければならない。
また、泥炭地は水との闘いでもある。地中の水脈は基本的に変えられない。同一圃場内でも排水性に差が生じる。全面改良は可能だが、費用対効果を考えれば現実的ではない。泥炭農業とは、自然条件を完全に矯正するのではなく、その揺らぎを理解し、許容し、使いこなす営みである。
泥炭で育つアスパラガスは、独特の香りと柔らかさを持つ。
それは単なる「有機物が多い土」という説明では足りない。長年堆積した植物由来の腐植が、微生物相や養分放出のリズムを形成し、作物の二次代謝にも影響している可能性が高い。泥炭は単なる培地ではなく、時間が蓄積された環境そのものだ。
しかし、その品質優位性もまた、気候に左右される。
20年前の冷涼な夏に生まれた味は、現在の高温環境では完全には再現できない。今できるのは、変化した環境の中で最良を目指すことだ。技術とは、理想を生み出すことではなく、劣化を食い止める努力の積み重ねでもある。
泥炭で農業をする意義は三つある。
第一に、土地の個性を理解する営みであること。
泥炭は均一ではない。だからこそ、観察と分析、仮説と検証が不可欠になる。土壌分析は単年では意味を持たず、複数年の傾向から設計する。だが最終的な判定は作物が下す。理屈と生体反応を往復する姿勢こそが泥炭農業の核心である。
第二に、気候変動への適応の最前線であること。
泥炭は環境変化の影響を受けやすい。分解速度、病害発生、養分吸収が気温と直結する。だからこそ、環境の変化を敏感に捉え、栽培方法を更新し続ける必要がある。泥炭農業は、過去の成功モデルを守る農業ではなく、常に書き換え続ける農業である。
第三に、品質を軸にした農業の可能性を示すこと。
かつては量で評価された。しかし現在は味と個性で評価される。泥炭の特性を理解し、制御し、活かすことで、他土壌では出せない品質を生み出すことができる。それは単なる差別化ではなく、土地の歴史を味として表現する行為でもある。
泥炭で農業をするとは、
過去の植物が積み重なった時間と、現在の気候変動の只中で、作物と対話することだ。
自然条件を言い訳にせず、
成功体験に固執せず、
土壌の性質を理解し続ける姿勢そのものが、泥炭農業の価値である。
泥炭は難しい土である。
だが理解すれば、強い。
その難しさを引き受けることこそが、
泥炭で農業をする意義なのだと思う。







