(暗い話です。脳内整理として書きます。)
3/24に、くも膜下出血で。
同い年、37歳。
朝起きてこない友人を、お母さんが起こしに行ったら、
すでに冷たくなっていたそうです。
高校時代からの友人。
美唄の数少ない友人。
高校卒業してからも、一緒にドライブしたり電話したり、
美唄に戻ってきてからはアスパラ買ってくれたり、
冬には他の友人交えてご飯食べたり。
年に2,3回しか会わないけど、定期的に会ってた。
そんなに親しくないけど、なんとなくウマの合う友人。
26日に妹さんから電話来て、本人だと思って、
「おう。どした?」なんて出たら、報告あり。
なるべくたくさんの同級生に知らせようと、
意外とfacebookが役に立ったり。
その日のうちにご自宅にお伺い。
涙は出るのに言葉なんて何もでない。
独身の女性なので、お父さんとお母さんもうなだれて。
妹さんが気丈に話してくれるが、聞くほどに泣けてくる。
本人らしく人に迷惑かけずに死んだんだ、と…。
祖父母やお義父さんの死とは違う。
違うスイッチが押される感覚がある。
数年前から、大事な家族や友人とは、その人が
いつ死んでもいいように覚悟をすることを覚えました。
もう、我々は受け入れるしかないんだ、と。
でも、会えないとわかると会いたくなる。
家族、恩師、友人などの死に直面するたびに、
たぶん行き方に少し変化があるんじゃないかという気がする。
ひとりの死はとてもとても悲劇で、それを何度も経験すると、
潜在的な何かが変化してくるのではないか、なんて。
それは自分の死も受け入れていけるようになることなんだろうか。
仕事は普通にしてるし、日常になんら支障はない。
数日でこのことすら忘れるかもしれない。
そう、思い出すのは年に数回かもしれない。
でも何かが欠けたんだと思う。
経験が少なくていいこともあるんだと思ったり。
逆に、活発に生きる気力は湧いてくるんです。
死が現実的になるからなのか。
その人のためとかその人も分も、とかは思いません。
いつ死ぬか分からないから、自分のため、家族のため、
生きまくりたいな、と。長さの問題ではなく。
でもやっぱり、少し叫びたいかな。
バカー!って。
明日の告別式で叫んでみようかな。
2014年3月27日木曜日
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