2013年9月25日水曜日

美唄を知ろう

本日、帰農6年目にして、ようやく美唄郷土資料館に行きました。
たぶん、小学生以来なのでかれこれ25年くらい振り。
きっかけは3年前。
農業の師匠に「地域の歴史も知らずに土地を預かってんじゃねえ」
と怒られたからです。
滞在時間は約100分。
ひとりでいい勉強ができました。
 
 
一番大事な写真を忘れてしまいました。
入口すぐには、美唄の特徴である泥炭土壌についての情報があります。
 
泥炭は湿地に分解しきれない植物が堆積してできた土壌のようなもの。
生成には1年で0.7mm-1mmと言われているので、
うちやま農園が6mの泥炭ということは、6,000年前から始まったということかな。
19世紀末には明治政府が調査に入っていたようですが、
原住民であるアイヌが険しい湿地帯を案内したそうです。
  
 
その湿地帯の基とも言える石狩川。
この川は昔はくねくね曲がっていて、日本で2番目に長い川でした。
しかし現在は利根川に抜かれて3番目。
その原因は、河川の増水・氾濫による被害をなくすための土木工事です。
何度も何度も工事して、黄色い線の川を黒い線の川に変えました。
これは美唄周辺だけなのですが、雨の恩恵は昔は被害なだけだったんでしょうね。

 
こちらは開拓初期の農機具。
草取り、泥おい駆除、
足踏み水車、馬が引くプラウなど。
大規模な開拓については、1891年に屯田兵が入植して始まります。
その前には、道路や鉄道を作っていたのですが、
主に工事に当たったのは囚人だったそうです。
後に炭鉱でも触れますが、囚人や捕虜に過酷な労働をさせ
(時には命を落としてまで)、できあがったインフラだと再認識しました。
屯田兵はというと、開拓のためなので、兵屋、農具、5haの農地、馬などに加え、
公有財産地として5haを与えられていたので、優遇もいいとこですね。
私が高校生のときには、バス停に「兵村北」とか「24年兵」とかありましたが、
その時の名残で付いていたんでしょう。今もあるのかな?
  
 
こちらは索道客土の写真。
今ではスキー場でよく見かけるゴンドラですが、当時は山から土を運んでいました。
美唄は泥炭土壌で原始林が生い茂る状態を農地に変えました。
ミネラル分の殆どない、水引の悪い湿地帯のような土地で農業を行うことは難しく、
改善するために山の土(主に粘土質)を運んだのです。
こちらの写真は軌道客土。
うちやま農園では馬に台車を引かせて土を運んだと聞きます。
もう祖父はいませんが、各農地まで軌道が引かれていたわけではありません。
終着点までいって、戻る。1回でたぶん数㎥。
70,000㎡の土地に粘土を運ぶのに、何往復したんだろ…。
 
話は聞いていたし、この写真を見るのも初めてじゃありません。
でも、改めて見ると、その偉大な作業がよくわかります。
 
初めて知ったことは、もともと稲作地帯ではなかったということ。
当初は畑作がメインだったようで、1909年には稲作が557ha/4,657haと
農地全体の12%程度でしたが、1937年には同5,400ha/10,000haと54%を占めていたと記録。
祖父が開拓で入ったのが1951年なので、おそらく、農業=稲作という地域になっていたんでしょう。
祖父の米作りが父のアスパラに変わっていく背景には、農業政策の転換、
いわゆる減反政策の開始があります。
 
うちやま農園だけの歴史を見るのと、地域の流れを理解してから見るのとでは、
外のも内にも考えるところはあります。
特別なことをやった訳じゃないかもしれないけど、たぶんベターな選択はしたんだろう。
そして、今も続いているということ。
 
 
 
美唄には農業の歴史とともに重要な歴史があります。
それは、炭鉱。19世紀後半から採掘が始まったようで、
国力増強とともに需要も高まり、美唄の主要産業として街を支えました。
ピーク時の1956年には人口9万人を超えましたが、炭鉱が全て閉山する1974年には
4万人を切っています。どれだけ美唄を支えてくれていたか…。
写真は、明治時代から昭和の戦後の石炭掘削の様子です。
左が明治、中が大正、右が昭和。
よくわかるんですが、ここでの館内放送は、掘る人の息遣いのみ。
人感センサーで息遣いが急に流れてくるので、小学生のころは恐怖でした。
で、今日もいつ聞こえてくるかとびくびくでした。
 
やはりというか、鉱山は地底深くまで作業員が入っており、
当然ガスや火災による事故も多く、二次災害を防ぐために人を残して坑道を塞いだり…。
こういう犠牲はある程度仕方ないとされていたんでしょうね、当時は。
当然捕虜もいたでしょうが、普通に国民もいたと思われ…。
  
 
 
炭鉱と農業。
美唄はこれでできた街です。
ともに国策で必要とされ、国策で不要とされました。
エネルギー政策の転換、農業政策の転換。
いかに依存していたか、いかに先が読めなかったか、
いかに挑戦しなかったか、いかに社会主義的であったか(これは言い過ぎ)。
でも、それは事実、あったこととして受け入れるしかない。
もう、過去のこと。
 
 
 
これ、茶志内付近。たぶん駅前かな?
茶志内駅(無人駅!)は1916年にできているから、もうすぐ100年。
  
 
で、思わず撮っちゃう写真。
植えてる植えてる。

とってるとってる!
…って、山に雪ある!5月の連休明けたら収穫してたとは聞くが、
写真みるとびっくりしますね。
霜が明日にも降りそう…。
 
もちろん、選果は人力。
多い時は1日で何十トンも運ばれてきたそうな。
 
 
懐かしい、美唄市街。
シャッター下ろしている商店はひとつもない。
  
で、問題の未来構想。
リゾート・工業ベルトともに、夢見すぎた。
 
1980年の構想では公共施設が沢山建つことになってる。
でもさ、炭鉱閉山のあとにこの構想をするって…。
 
 
確か戦後間もない教室。
正しい姿勢。
大事です。
  
我が母校、茶志内中学校。

 
 
勉強になりました。
郷土資料館、ありがとう。
諸先輩方の発言の背景が少しわかったり、大事なことや拘りがわかったり。
農業については良くも悪くも理解が深まった。
変わらないと終わる、という危機感はより強くなったかな(笑)

2 件のコメント:

石田ファーム さんのコメント...

私も8年位行ってないなぁー、どうも石田です。
馬の鳴き声がセンサーで流れる所が怖いけどとっても良い資料館ですよね!

ひろし さんのコメント...

石田さん、こんにちは!
コメントありがとうございます。

改めて行くと、いい資料館だなーと思います。でも美唄がいかに国策に依存してきたかも思い知らされ、偉そうにしている人の背景にがっかりしますね(笑)